
首長申立と親族申立、そして支援者
最高裁の統計では、昨今、成年後見申立における首長(市町村長)申立が増えているそうです。
以前は、いわゆる子どもさんなどの「親族申立」が多かったとか。
これも、時代の変化でしょうか。
また、首長申立の担当者さんや利用支援に携わる支援者さんらとときどき話をする機会がありますが、皆さんがよくおっしゃるのは、
「でも、ご家族はいるんですけどね。」
まあ、そうですよね。
探せば・・・どこかで誰かとつながっているのが我が国の「家族」。
「戸籍」というシステムがありますので、それをたどっていけば誰かにつながるのは当然と言えば当然です。
身寄りがない=「関わりを拒否している」関係と成年後見申立
実務者の視点で申し上げると、成年後見制度はあくまで制度利用を必要とされているご本人の「権利擁護」のためにあるわけですから、関わる親族がいても、いなくても、制度の必要性の判断にさほど関係ないと捉えるのが一般的です。
しかしながら、首長申立の担当者さんや支援者さんらの言いたいことも理解はします。
「でも、ご家族はいるんですけどね。」
おそらく、この言葉の背景には、何らかの原因でご本人との関係が疎遠で、「成年後見申立を行ってくれる」、または「その作業に協力してくれる」親族がおらず、致し方なく「首長申立」という手段になってしまっているということだと思います。
行政としては最初から「首長申立」ありきではなく、一旦は親族申立など「他の申立手段」がとれないかを確認する作業は当然あります。
ですので、上記の発言は申立段階での言葉であろうと私は認識していますし、その場合の彼らの言葉が間違っているとも思いません。
彼らの職務上、それもまた当然です。
また、「身寄りがない」という表現は、もう少し正しく言えば、「戸籍上は親族になるけども、関わりを持たない(持ちたくない)という、どちらか一方の、または双方の意思がある」ということが昨今の現状でしょう。
自身の後見実務においても、このような状況にある方は少なくないと感じます。
もちろん、親やきょうだいがいて、関わりもあって、その上で成年後見制度を利用されている方もたくさんいますが。
被後見人と親族との関係性の「修復」をどう考えるか
申立段階での担当者さんや支援者さんらの職務上の親族に対する言葉は理解するとして、ただ、一つ実務者としてはなかなか受け入れがたい視点があります。
その後の、被後見人と親族の「関係性の修復」についてです。
「被後見人と親族の疎遠になってしまっている関係性の修復は、後見業務の優先順位としてはそう高くない。」
「後見業務の範疇を超えている。」
実務者としての認識は、上記のような考え方が「基本」にあると思います。
しかし、この認識は、申立段階から先のようなご本人と親族の疎遠な関係を悩ましく捉えてきた担当者さんや支援者さんらとは、なかなか同じ方向を向いていないと感じることも多いです。
つまり、後見人が被後見人と疎遠になった親族との関係性の修復も課題のひとつとして捉え、積極的に働きかけるのではないかと、支援者さんらから勘違いされがちです。
もし、たとえ被後見人自身がそれを希望し気持ちを代弁することはあったとしても、後見人は「結果」に対してはあくまで冷静です。
場合によっては、後見人自身が介入するのではなく、支援者さんらにその点における介入を依頼することもあり得ます。
また、この実務者としての認識はいわゆる専門職後見人と呼ばれる弁護士、司法書士、社会福祉士、どの職種にも共通して言えることです。
実務に対する考えや姿勢が少しも違わないことはないかも知れませんが、少なくとも、例えば法律職だから考え方や捉え方が「現実的でクール」だとか、福祉職だから「人と人の課題に介入したがる」とか、そういうものでもないと私は思います。
なぜなら、「今のその関係性に至る背景があり、なんらかの因果関係があるはず。」という捉え方が、後見業務における後見人としての基本的姿勢だからです。
後見人の視点と実務における基本的姿勢
後見人にとって重要なのは、被後見人の「今」と「これから」。
被後見人のこれまでや親族との歴史をどちらがどうだとか、良いの悪いのと今ここで審判し、一方の(おそらく支援者らに期待されるのは、被後見人に対してかと思います。)過度な思い入れをすることはない。
被後見人の、また親族のこれまでがどうであれ、それが被後見人自身でありその方の人生なのです。
私もこれまで携わってきた事案で、被後見人の親族との関係性について、お気の毒に感じることもあれば、致し方ないと感じることは確かにありました。
しかし、だからといって、それ以上に感情が動くこともない。
実務における必要以上に稼働することもありません。
ときには被後見人の想いから、また実務上の必要性から、親族に連絡をとることもあります。
それでも、もしその結果がこちらが期待したものでなくても、それもまた被後見人の現実であって、それ以上でも以下でもない。
被後見人ご本人のために、その人の「今」をまるっと一緒に受け止めていくしかない。
嬉しくても、つらくても、被後見人と「現実」を一緒に受け止めるだけだと私は思います。