後見人とクライエントの死後対応~最期までありのままを受け止める~

後見人としてクライエントさんをお見送りするときに

私は、これまでにも数名のクライエントさんを後見人としてお空にお見送りしてきました。

「死」や「命」と向き合う尊い時間。

この大切な時間の中で、いつも大事に思っていることがあります。

お亡くなりになった方をお見送りするという、いわゆる葬儀やら火葬やら埋葬やら、そのようなときではありますが、自分自身の個人的な宗教観を決して出さないということ。

世間一般的な当たり前を、一旦自分の頭の中からなくすことです。

ご本人のありのままに向き合う

目の前のご本人、今のご本人のありのままにきちんと向き合う。

それがなにより大事だと思っています。

和尚さんを呼ばなくては

お経をあげなければ

祭壇を用意しなければ

お骨を納めるところは・・・

もちろんどうでもいいとか、そういうわけではありません。

ご本人が望む方法(送り方)があればなおさら、なるべく叶えてあげたいとも思う。

その努力もします。

それも私の任務です。

ただ、世間ではごくごく普通~のご葬儀の在り方でも、またご本人が望む形があったとしても、実際にそう叶わない方も世の中にはいます。

本当にいます。

ごく一般的な?当たり前と、現実と。

誰も来ない

親族に連絡すらつかない

お骨を納める先もない

一連の仏事を執り行うお金もない

いろいろな方がいるのです。

いろいろな事情があるのです。

でも、だからダメ!でもありません。

かわいそうとも思わない(ようにしています)。

ご本人に対しても、ご親族に対しても。

そして、経済的事情も。

ただ、事実なだけです。

どういう状況であれ、そこにどういう背景があれ、そのまま丸ッと受け止める。

粛々と、その状況の中、後見人として自分が出来ることをするだけです。

後見人の最後のお勤めとして。

最期のお姿も、最期のあり様も、この方の人生の一部であり、この方自身です。

そこに感情のままに、自身の個人的な宗教観のままに、「むりくり」動く、働きかけるというのは、ご本人を、ご本人の人生を否定しているように私は感じます。

「それじゃダメ!」って、レッテルをはってるように感じます。

後見人は、審判する立場ではありません。

私とクライエントさんの最後の会話

そんなご本人と私を見ている周囲の方は、「かわいそうに。」とか「大変ですね。」とか、お声掛けくださるのですが・・・

ありがたいけれど、そう声をかけたくなるのも人の心情でしょうけども、そういうときは必ず、

「ありがとうございます。」とお礼を言って

でもご本人には、

「私がいるから大丈夫よ。」と、そっと言うことにしています。

だって、私はこの方の後見人です。

ありのままのこの方を、これまでの人生を、今を、私がありのままに受け止めきれなければ、他の誰にそれができるでしょうか。

ご本人が炉に入る直前に必ず最後にかける言葉は、

「ありがとうございました。またね。」

そして、ちょっとだけ泣きます。