成年後見制度の「利用支援」とご本人の「意思の尊重」について考える

成年後見制度の利用支援と「ご本人の」制度利用に対する意向

成年後見制度の利用支援に携わる支援者さんから寄せられるご相談がいくつかあります。

その中でも、

「ご本人が成年後見制度の利用に積極的ではない。」

「ご本人から、まだそんな支援は必要ないと言われる。」

といった内容は多いです。

毎年、どこかで支援者向けの研修やセミナーを行っていますが、この種類のご意見がよく聞かれます。

つまり、支援者としては「だから、成年後見制度につなぐことができない。」ということのようです。

中には「ご本人はともかく、ご親族が反対しているので制度利用につながらない。」なんてことも聞かれます。

しかし、主として課題になるのは先であげました「ご本人の制度利用への意向」でしょう。

成年後見制度の基本的な主旨を考えれば、「親族の意向」については主軸を置く部分ではないと思いますのでここでも割愛します。

制度利用につなげようとしている「根拠」は何か

たしかに、成年後見制度を利用しているすべての方が制度利用に必ずしも積極的であるとか、制度の内容をカンペキに理解しているかと言えば、そうでもないだろうと実務者としても感じるところです。

強いて言えば、「理解がむずかしい」こと自体が、制度利用につながるその方のご病気であり、障がいでもあると私は思います。

また、成年後見制度の利用はあくまで「権利擁護支援」のひとつです。

単なる「財産の預かり・保管」や「支払いの代行」であれば、なにもこの制度に限らず他の手段も考えられるでしょう。

支援プランとして「成年後見制度の利用につなぐ」方針ということは、このままではご本人の権利が擁護できない状況が予測される、もしくは、すでにその状況にあるわけです。

つまり、支援者として成年後見制度につなぐ必要性を考えているということは、対象となるご本人の「判断能力」や「理解力」に対して「権利擁護の視点」から支援が必要なわけですよね。

支援者として、支援チームとして、ここの認識がぶれないことがまず大事です。

ご本人の意向と生活者としての「義務」

次に、支援者さんらのお話を聴く限り、おそらく皆さんがだんだん見えにくくなってくる点がご本人の「義務」です。

ご本人の「意思の尊重」を考えるあまりに、その人の地域で暮らす一人の生活者としての「義務」が薄れがちになる印象があります。

ひとは誰しも、生活の中で、人生の中で、それぞれに負っている義務がある。

一人ひとりのその義務がおろそかになると、日々の営みが、暮らしが、社会生活が成り立ちません。

認知症があっても、知的障がいや精神疾患があっても、我々には日々一人の生活者として全うしなければならないことがあります。

それを、ご病気や障がいゆえにその人の力だけでは全うできずにいるのであれば、その点においても当然支援が必要です。

ご本人の意向や意思に沿った結果、その人が本来果たさなければいけない義務もないがしろになる。

そして、誰かを巻き込んで「成り立たない」ことが出てくる。

ご本人にとっても、地域社会においても、本当にそれでいいのでしょうか。

ご本人に「寄り添う」とはなにか

「そんな制度は使いたくない。」

「自分でできるから、ほっといて欲しい。」

多くの支援者さんが、成年後見制度の利用支援を働きかけるご本人から、まずはそう言われることが多いのかも知れません。

なかなか思うように支援が展開しないのは、支援者として辛いですよね。

しかし、ご本人の気持ちを考えれば「それも、そうだろうな。」少なくとも「まずは、そうだろうな。」とも思います。

「できなくなった自分」「できていない自分」という現実に向きう合うことは、そう容易いものではないでしょう。

おそらくとてもしんどい、苦しい作業になります。

支援者として「ご本人の意思や意向、気持ちに添う」というのは、まずこの苦しい作業をご本人と共有することからはじまるのではないでしょうか。

この苦しさを分かち合った先に、次のステップがある。

つまり、ご本人の苦しさが大きいほど、支援者としても根気のいる時間なのです。

「どうすれば、スムーズに制度利用の了解を得られるでしょうか?」というありがちなご質問。

自分ごととして考えてみてください。

あなたは信頼のおけない、自分の味方だと思えない相手からの提案をすんなり受け入れられますか?

おそらく支援を「スムーズに」うまくやろうとしているその下心を、上辺だけな印象を、ご本人から見透かされています。

支援に行き詰まりを感じたら、「本人の気持ちに寄り添う」ということを今一度考えましょう。